ボードゲームコミュニケーション

 ゲームというのは、ルールという制限を理解する競争。とも言える。う〜んとうなるものや、散歩しながらひらめいたりするもの、色んな重さがあるが、何にせよ頭の体操みたいなものであり、時には疲れた、もしくは止まった頭を、動かすために効果的であろう。
 そんなことを、なんとはなしに感じてる人が、ゲームを手元に置いておく人となっている。どんなものを置くか?は、これまた大から小から、長から短、様々であるが、結構な人数が、拠り所にしているのが特徴だ。昨今の傾向としては、ゲームの形態の幅がすさまじく増えた。コンピュータAIの登場からである。
 で、それらの中でも、強めにゲームの必要性を生活に感じている人。まあ、言い方は大げさだが、そんな人は、自分のルールへの追及結果の上を知りたい衝動に駆られる。それは向上心でもあるし、自己満足や、顕示欲の表れでもあるかも知れない。好きになって好きになってしょうがないというレベルの人が、その点にいたりやすい。いわゆるファンというやつで、オタクと呼べる素質がある人だ。自分以外の世界で、どこまでルールを理解したやつがいるのか?を求めて、コミュニケーションを計りたくなる。
 193?年から続くモノポリー世界選手権は、その一つ。制限(ルール)を考えた人は偉大で、その時代にしては、かなり高尚なレベルまで昇華したゲームだったからこそ、今のルール飽和な時代でも楽しめるのだ。なるほどルールというものは、このモノポリーに限らず、未だ無限で、日々新しいものが、この日本、あとアメリカでも、凄いペースで生まれている。それは、アタリや任天堂、アップルが、そこにあったからに他ならない。
 この他、忘れてならないのがドイツ。ここのボードゲームは数年前のカタンというヒットゲーム以来、くすぶっていた文化が再び花開いた。毎年2つのゲームアワードがあり、そこに選ばれるゲームルールのバランスと、詰め方は、日本やアメリカの上をいく。ボードゲームというのは、複数人でルール追求を楽しむ。という前提があるためか、制限の質は軒並み高い。このゲームの本質のみをつついた展開は、原点でありプレイヤーの頭をグルグルかき回してくれる。このドイツの文化には、あやかりたいところが、大きい。恥とか外聞とか気にせずに、日本もアメリカも、パクってアレンジして取り込んでいきたい。